サヴァイヴァル・メール
第1版
発行日 2000年2月2日
発行 日本せきずい基金
住所:〒183−0033東京都府中市分梅町5−27−1石井ハイツ102
電話:042−366−5153
ファクシミリ:042−366−5133
Eメール・アドレス:JSCF@mail.normanet.ne.jp
ホームページ・アドレス:http://www.normanet.ne.jp/~JSCF/
私たち「日本せきずい基金」では、
@麻痺からの解放を目指し、せきずい損傷治療の充実を促進する。
Aどんなに障害の重いせきずい損傷者でも、自立と自尊の生活を確立できるような社会
の実現を目指す。
Bすべてのせきずい損傷者がそれぞれの資質にあった社会活動ができるよう、あらゆる
障壁を取り除く。・・・・・・・・・・・・を根本理念として活動しています。
今日、呼吸器利用のせきずい損傷者との500通以上にも及ぶメールのやり取りをこのような形の小冊子にまとめて発行できることになりました。私たちの理念の実現へ向けたものになったと自負しております。
たとえば、首の骨を折ってけいずいを損傷した多くの人は、手足がまったく動かない身体になります。自分の手で、本のページをめくって読むことも手紙を書くこともできなくなってしまいます。このようなけいずい損傷者は、生きていくために必要不可欠な移動・食事からトイレにいたるまでの日常生活の大半を、介護者にお願いしなければなりません。一日を無事に乗り切るのが精一杯で、情報交換にまで精力を注ぐのは困難を極めます。
それでも介護者の協力を得て、果敢に情報交換がおこなわれている例はあります。特に最重度の呼吸器利用のせきずい損傷者間の情報交換を通して創造されていく新しい情報は、圧巻です。命をかけてEメール等で情報を受信し、その中から当事者にとって生きやすい情報を取捨選択して新しい情報を創造し、それを発信し続けている人たちがいます 。
ここ数年間で、呼吸器の事故で何人かの仲間が、ある日突然、他界されました。3分間ほどの呼吸器の故障があると、人生のタイムアウトを迎えなければならない最重度の、呼吸器を利用しているせきずい損傷者間の地に根を張ったダイナミックなネットワークの交流によってのみ、今までにはなかった最も有意義な新しい情報を生み出すことが可能なのだと思います。そこで生み出されたさまざまな情報は、最先端の思想・哲学にも耐えうる力を持ち、私たちせきずい損傷者は言うに及ばず、現代社会が抱えている問題を浮き彫りにしてくれ、解決の糸口へと導いてくれるものです。
この小冊子の存在をひとりでも多くの呼吸器使用者に知らしめたいと思います。どうかお知り合いの呼吸器使用者に教えてさしあげてください。「日本せきずい基金」のホームページでもご覧になれます。呼吸器使用者からのご連絡をお待ちしています。
最後に、編集してくださった藤川景さん(C5)に深く感謝いたします。命をかけてEメール等での情報交換をしてくださった上田政博さん・古跡博美さん・M.Y.さん・T.K.さん・中山功太郎さんにもっとも深く感謝いたします。
2000年1月1日 「日本せきずい基金」
●上田政博(1971年生、1993年受傷、C1、脳幹部) 基金HP掲載 1998、9
1999年2月1日、上田さんがタンを詰まらせ亡くなりました。以下はそれ以前の記述です。
アメリカ留学中、交通事故により頸髄損傷に。事故後5年経過。地域医療にたいへん熱心な上島嘉美先生(内科)と、服部整形外科の服部先生が主治医。
呼吸器を装着しており、たくさんの介護者が必要です。意識明瞭。
PT、呼吸理学、作業療法、ST、による訓練をおこなっている。危険防止のための措置として、経皮モニターと、呼び出しセンサーあり。介護者負担を減らすため、個室・浴室など全面改造をしております。
外出の際は、人工呼吸器を車椅子の背中につけ(後輪の上)、家族が付き添います。
上田さんは、頭も首も動かない状況ですが、Macを使ってパソコンを打っている。入力は唯一動く顎だそうです。しかしこの入力装置が、使いにくいのだそうです。使いやすい入力装置に関して情報をお持ちの方は、事務局まで御連絡ください。
●古跡博美(1957年生、1990年頃から上咽頭腫瘍発病)
四肢麻痺、呼吸器をつけて在宅している42歳の男です。
豆腐屋。妻の実家の(有)小西豆腐店のナンニモ専務取締役として大活躍中の33歳の時、病に倒れる。
1990年11月末、ときどき左目の動きに異常を感じる。
1991年1月末、左目が動かなくなり、眼科受診、目には異常なくいろいろ病院を紹介してもらい、MRIなどの検査をするが、検査の結果上咽頭になにかあることはわかったようだが、はっきりとした治療法がわからないらしい。腫瘍があることを説明され、もっと大きくなって頭蓋内に入るようになると、手術するといわれた。不安が募る。
2月、知人から広島の病院を紹介される。受診、すぐに上咽頭腫瘍と診断され、即入院する。腫瘍の一部を摘出し検査。放射線治療をして腫瘍が残ったら手術して取り除くと、説明を受ける。顔面マスクを作り、放射線治療始まる。喉の痛み。目のうずき、体がだるくなり、食欲がなくなる。10キロ減量。
5月、新たな腫瘍が目の裏に見つかる。頭蓋内に転移。放射線治療が再び始まる。前と同じ症状に悩む。左目の瞳孔が開いたままに。計15キロ減量。わしゃもうだめじゃと、大げさに騒ぐもんほど早く退院していく。人一人の弱さをつくづく悟る。
6月、退院。退院中、前立腺をわずらう、足の感覚がだんだんなくなる。向こう脛から血が出ているのに痛みを感じなかったり、風呂のお湯の熱さ冷たさがわからなかったりした。だんだん足の動きが鈍くなる。
8月、頸椎MRI、目立つ変化はないそうだ。再入院。
9月末、唾液がでなくなり、歯がぼろぼろ、やっと動く足で新聞、本を買いに行くたびに、守衛のおじさん、売店のおねえさまが励ましてくれた。神経科の患者さんも心配してくれた。足も動かなくなる。腕指も動きが変になりペンが取れない。
11月、手足がまったく不自由となり、寝たきりとなる。けいれんはよく起きる。
12月中旬、胸に突然けいれんがくる。息ができず生きた心地がしない。妻に今までの礼と、これから先のことを頼み別れを告げた。この日から毎日のように目をつぶると、窓から外にでて空を飛び、野山を越え、そしていつも見えない壁にぶつかり、地面に叩きつけられ気がつく、といった夢のような、俗にいう幽体離脱のような毎日が、喉を切開するまで続く。
1992年1月末、呼吸を助けるため、喉を切開。
2月1日(土)呼吸器、ベンチレーターを付ける。コンプレッサーを部屋の外に設置。この前後数日胸が異常に敏感になった。
3月、かるい褥瘡ができる。主治医、リハビリの先生の薦めで、ワープロ、油絵、詩、短歌を始める。
1993年4月、ストレッチャーにアンビューバッグで看護婦さんと病院の周りを散歩。久しぶりの花見。車椅子で散歩していると、ご主人を亡くされた奥さんが車から降りて、僕に駆け寄り「古跡さんあなたは絶対死んじゃいけんよ! がんばって!」と涙を流しながら励ましてくれた。忘れられない衝撃。チンコントロールによる車椅子の運転も始める。起立性低血圧が頻繁におきるが、へその下をたたくことにより、解消することを発見。
1994年4月、初の日帰り外出、主治医をはじめ病院から4人付き添い。在宅介護に本腰を入れるようになる。
1996年3月26日、三原の病院退院、在宅の始まり。
入院中に多くの人に励まされた。見た感じは僕より元気な人たちが「がんばれよ」と言って先に旅立ってしまった。まるで残り少ない寿命をさずけるように。
●M.Y.(1950年生、96年受傷、C1)
1.年齢 48歳
2.家族 妻と娘2人
3.元の職業 会社員
4.受傷の経過 96年10月、横断歩道で車に轢かれる。C-1,2,3。人工呼吸器LP-6使用。入院期間 1年8ヶ月。
5.現在の趣味 音楽を聴くこと、特に50年代のジャズ。
6.今考えていること インターネットを使い何かできないかと考えています。せきずい基金の活動に協力すること。せきずい基金は目的が明確で実質的に社会にはたらきかけようとしているところが好感がもてます。単なる同病相憐れむ、の団体ではないのです。ネットを使って仕事をしたいと考えています。毎年、一定額の寄付をしたいとかんがえています。
7.心がけていること 忍耐強く生きること。
8.いま一番したいこと 本を自由に読みたい。早くすべての書籍がネット配信で読めるといいとおもう。事故の前、私はスポーツが好きで、会社に行く前と深夜にランニングや筋力トレーニングをしていましたが(趣味はマウンテンバイクだったのです)、いまは徹底的に頭を鍛え、時代についていかなければと思っています。
●T.K.
私は、人工呼吸器使用の頸損者(1968年生、1998年受傷、C2)の姉です。弟はまだ入院中です。
98年5月に交通事故で受傷し、C2レベル。人工呼吸器は体調がいいと半日ほど外すことができます。ただ、横隔膜は動いていないといわれ、腹式呼吸ではなく肩で息をする努力呼吸です。ご多分に漏れず、退院を勧告されながら救急病院で1年、労災病院に2ヶ月、今はもとの病院に入院中です。退院に向けて、帰る家を建てるべく小さな土地を購入し、バリアフリー住宅建設準備中です。
現在の問題点は、股関節にできた異所性化骨のために股関節の可動域が制限され、きちんとした座位がとれないことです。労災病院では、「化骨切除術は出血量が多く、また組織欠損腔が大きくなるため、術後の感染、皮膚壊死の恐れが高いので勧められず、あえて可動域を拡大するならば、大腿骨転子部での骨切りにより偽関節とするほうが、侵襲は少ないと思われる」と言われました。こうした処置しかありえないのでしょうか。どこかに化骨の手術をして下さるドクターはいらっしゃらないでしょうか(たとえ海外でも)。
もう1点は、呼吸リハビリを施してくださる病院、もしくはPTの先生をご紹介いただきたいということです。横隔膜が動いていないのは、神経が完全に切断してしまった、もしくはこの1年使っていなかったために動かなくなってしまったという可能性も考えられるということです。今まで、腹式呼吸の練習方法を教えていただきたいと何人かの方にお願いしましたが、自分で感覚のない者に教えるということは難しく、また呼吸リハビリの経験のある方がいらっしゃらないという状況です。
ニュースにも載っている脊髄再生について、私たちも心から期待し近い将来現実のこととなることを信じています。ただ、周囲の医学関係者に話しても遠い先のことという見解で、脊髄再生がかなった後のことを考えたリハビリはしていただけないのが現状です。私たちもクリストファー・リーブのように、筋肉が衰えないような訓練をしたい、その望みが医療費の問題、また医療関係者の理解のなさ、意欲のなさによって潰されてしまうのは悲し過ぎます。その他、正しい姿勢をとれないために生じる2次障害などについてもほとんど考えられていないという状況も心配です。
最新で最善の治療を求めること、より良い治療を作り出すためには医師と患者の相互協力が必要かと思います。私たちもその一翼を担えるよう、私にできることがあればと思います。
●中山功太郎(1967年生、1994年受傷、C2)
1994年11月6日、ラグビーの試合中の事故により受傷。静岡済生会病院に緊急入院。第5、第6頸椎脱臼骨折と診断される。入院当初は、自発呼吸もあったが、5日目の朝、突然呼吸ができなくなり、急遽鼻から人工呼吸器を取り付ける。このとき炎症が第2頸椎まで上がってきて呼吸ができなくなったと言われた。鼻の人工呼吸器は10日が限度ということで10日後に頸椎の固定手術と同時に人工呼吸器を付けるための、首の切開手術をする。
その後、首の切開部が狭くなるため、広く、閉じないようにする手術、腰にできた床擦れの手術をした。約1年8ヶ月入院。
1996年7月に埼玉県所沢市にある国立リハビリセンター病院に入院。全自動車椅子やパソコンなどの訓練を受けるが呼吸は戻らず。自宅を新築後1997年10月に退院、現在に至る。
現在の状態は5年前と変わらず、首から下の完全麻痺および呼吸不全。自発呼吸はまったくありません。呼吸器を外すと1分ほどしかもちません。
T 人工呼吸器
鳴らないようなアラームでいいのか
上田政博(姉) 1998、10、22
先日、浜松のシンポジウムでお会いしました大阪の上田の姉です。お会いできてとても嬉しうございました。弟も行って、たいへん勉強になったようです。本当に呼吸器を付けているかどうかというのは大きな問題ですね。
実は、帰ってからモニターにすこしトラブルがあり、厄介なことが発覚しました。帰りましてから、アラームの設定の数字でなかなか鳴らないので、急いで業者に連絡をとり、担当のかたからお話を伺ったのですが、最初ろくに確かめもせず、「数値はプラスマイナス2の誤差があるんですよ。故障じゃありません」というのです。とにかくモニターの状況は、たとえば92に設定しても、88や90で鳴り出してしまうのです。それにばらつきのある測定値を出していました。
今の医療の状況では、病院で使うので、あまり鳴り過ぎると良くないということで、ある程度機械の性能として状況を判断し、緊急の状態であるとするまでに時間をとっているということでした。それで測定値に多少の変化があるとの説明でした。
しかし、何の説明書きもないのには、こちらもカチンときて、責任ある態度を求めたところ、持ち帰ってアメリカの製造元に連絡をとり、東京の本社でいろいろ機械について調べてくれました。その結果、今日のお話では一度アラームが鳴って、spo2の数字のところが点滅状態になって、はじめて機械は、緊急事態の体勢になり、設定値で素早く鳴るようになるようです。それには一度アラームの下限の上限が95なんですが、それにして、呼吸器をはずすなり、吸引で下げ、一度アラームを鳴らして、点滅させた状態を作らねばならないということでした。
とにかく担当者がそのことを文章でみんなに解るようにしてして下さるようなので……。担当者も、他に買う人がいたら待って下さいと言っていました。こういったことがあることを、取り扱い説明書に記入してしていないのは大問題です。とにかく医療器具は患者側より、体制側のために作られている節があり怒りを憶えますが、すこしずつ声に出していくしかありませんね。
血中酸素飽和度に注意 M.Y. 1999、3、4
「タイム」のクリストファー・リーブに関する記事の翻訳で「酸素浸潤値」とあるのは、日本では「血中酸素飽和度」あるいはサチュレーション saturation(飽和の意味の英語)と医師はいっています。つまり血液中の酸素量のことで単位は%であらわされます。正常値は97%前後。呼吸器使用者にとっては重要な値で、簡易型サチュレーション・モニター(ゲームボーイ程度の大きさ、約10万円)は呼吸器使用者には必需品。リーブはこれを使って呼吸器離脱訓練をしている。
使い捨てカイロとは? 藤木 1999、3、17
M.Y.様 本日、呼吸器使用の頸髄損傷者から人工呼吸器のカイロの使い捨てというものがあると聞きました。私にはカイロという意味が分からないのですが、チューブやその他もろもろの呼吸器利用者にとっての必需品で、自宅で消毒して何度も使わなくてもいい使い捨てのものがあるのでしょうか。教えてくれた人に、呼吸器利用の人ならカイロといえば分かってくれるといわれ、それで退散しました。もしM.Y.様にとって使い捨てカイロが役に立つ可能性があるものでしたならば、もっと詳しく聞いてきます。
入院中8回はずれる
M.Y. 1999、3、18
カイロというのは回路のことで、呼吸器本体と喉元のカニューレをつなぐフィルター+ホース+人口鼻(空気の乾燥を防ぐフィルターのようなもの)+接続部+カニューレ⇒肺となっています。ホース以外は使い捨てです。ホースは自宅で消毒します。
この部分の消毒を自宅で素人がやるというのが理解できません。ホースは何度も使用すると樹脂のため弾性がなくなり接続が甘くなります。ホースの蛇腹は透明なフィルムでできているのですが、古くなると裂けます。このチェックは全部ユーザーサイドで行います。こんな大切な部分が素人にまかされていることが理解できないのです。製造物責任 product liability の観点からいってもずさんです。Reeve も不安を訴えていましたが、接続部になんのロック機構もないのも問題です。
97年に人工呼吸器がはずれ植物人間になるという事故が有名大学病院であり新聞にのりました。
私も入院中、8回はずれました。人工呼吸器はICUなど十分な監視体制で使用されることが前提となっているので、自宅のような人的バックアップのないところで使用されることは考慮されていません。foolproof や fail-safe といったあたりまえの考え方が欠けているのです。なによりも欠けているのはユーザーの恐怖感、不安感に対する配慮です。これは医療器具全般にいえます。一般の商品はユーザーと商品の接する部分=ユーザーインターフェイスに改良やマーケティングのヒントを見出し企業努力をするのですが、医療器具の業界は寡占で努力は不要なようです。残念です。病院でも私はさんざんいったのですが。一番の問題は医療器具メーカーが最終ユーザーを患者ではなく医師や看護婦だと思っている点です。
呼吸器が外れて危機一髪 古跡 1999、12、18
入院中2人部屋で隣の留守ベッドにすわってテレビを見ていた付き添いの母が、ちょっと売店へ買い物へ行ってくるからといって出ていった。1分ほど経っただろうかボロッと呼吸器が外れた。ありゃはずれた、あれまーどうしましょうかねー、悩んでもしょうがないけーとりあえず深呼吸でもしようか、せーのよ! おおっ! ちーたあー空気が入るじゃん。
ちょうどそのときテレビで懐かしいフォークソングをやっていた。懐かしさに気をとられていたからでしょうか、あわてなかった。あと何曲聞けるかな、これが終曲かあ? ちいと苦しいのー、こ、こまでかー。映画のように化けて出れるかのー。化けて出るなら面白いお化け。
そんなことを思って気をまぎらわしていたが、12〜13分ぐらい経っただろうか、苦しくなってきた。もういかんかな。俺の人生こんなもんか。もっとまじめに真剣に逃げずに楽しく生きればよかった、みんなありがとう、さよなら、家族にさよならを……と思ったら他の科のドクターが呼吸器の警報を聞きつけ部屋に飛び込んできて(まさに飛び込んでといった表現がぴったり)呼吸器をつないでくれた。やれまたあの世への旅行券はおあずけか! 看護婦さんそうとう怒られたようだ。
在宅になってからのこと。目がさめたら周りに誰もいない。おまけに環境制御装置にも口が届かない。コールができない。ねばい痰がゴロゴロ。今呼吸器が外れたら息ができない。こわい! どうすりゃいいんだ。どうもできない。くそー、情けない。ただ待つだけ。寝るか! 寝れん。いらだち、怖い。ポン。ついにはずれた。子供が2階から降りてくる足音。すぐ警報に気がついてアンビュウを押してくれた。まだまだついてる。