「21世紀の市民社会」
障害者が街中で暮らし、新しい価値観の社会を創造して
"愛と優しさ"のある豊かな生活を!!
可山優零著
はじめに市民社会を、自由・平等な個人によって構成される社会であると定義して本論を展開していきたいと思います。社会を自由・平等な個人によって構成するためには、個人が自由・平等になっている必要性があります。しかしながら現代は、さまざまな特権があります。明らかに目に見える特権や容易に認識しにくい特権によって、身分的支配・隷属関係が作られています。たとえば、学生時代には先輩・後輩の関係によって生まれる特権、成績の「よさ」によってクラス内での学級委員や学校の生徒会などの役員になれるという特権もあります。成績の「よい」とされる大学を卒業した者の方が、収入を多く得られる会社に優先的に入社できる傾向が強いという特権もあります。社会人になると、仕事の遂行能力の善し悪しが出世に、もっとも大きな影響を及ぼしています。仕事の遂行能力のある人が、早く出世ができるという特権を得られるのです。一般的に言えば、その特権が得られると、金・名誉・地位が他者よりも容易に獲得しやすいという特権に預かることができます。
どうして、何がしかの特権が生まれてしまうのでしょうか。人間・事象を判断する場合、ある一つの価値を重要視しすぎてしまうことが、大きな原因になっています。そのような判断をしますと人間・事象は、不変的に、ある一つの価値の指標上に序列がつけられて並べられます。一度そのようにされると、優劣の度合いがあからさまになり、優劣の評価が固定してしまいます。その結果として特権が生まれ、身分的支配・隷属関係が作られるのです。
特権を生み出さないためには、常に決まったいくつかの価値だけを重要視しすぎた判断で、人間・事象を優劣の順番にそって並べることを止めることです。状況に応じて妥当な価値を選択して、それらの価値を評価できる価値観を導入して、人間・事象を判断することです。その時々の状況に応じた妥当な価値は完全に同一になることはありえないので、一つの指標上に固定した優劣の順番をつけて人間・事象を並べることはできなくなります。不変的な上下の優劣をつけて、人間を並べて評価することができなくなるのです。『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。』の状況になります。そのようになれば、特権は生まれにくくなります。状況に応じた妥当とされる価値の指標にそって人間・事象に序列が生まれますが、妥当とされる価値が状況によって異なりますので、固定化した特権は生まれなくなります。
次に、今までのべた事柄を簡単な例によって説明いたします。
- (1)常に決まった一つの価値だけで、人間・事象を判断する価値観
- 数学の試験の結果だけによって生徒を判断しますと、数学の試験の点数の順番に
そって序列化され、生徒の優劣が明らかになり、点数のよかった者が学級委員に
任命されるなどの特権が生まれます。
- (2)常に決まった二つの価値だけで、人間・事象を判断する価値観
- 数学と体育の試験の結果だけによって生徒を判断しますと、直交したXY軸(X
軸は数学の点数、Y軸は体育の点数)の平面座標上で生徒の点数が表され、優劣の評価ができない場合が出てきます。たとえばA;(30,70)B;(35,50)のような試験結果のAとBという人を評価する場合、優劣をどちらにするか判断できなくなります。
- (3)状況に応じて妥当な価値を選択して、人間・事象を判断する価値観
- 数学と体育と音楽と優しさなどの多くの試験の結果と価値で生徒を判断しますと、多くの相いれない価値がありますので、あからさまに優劣の順番をつけて生徒を一つの指標上に並べることはできなくなります。生徒を上下に並べて、優劣を判断できなくなります。
特権や身分的支配・隷属関係を廃止し、自由・平等な個人によって構成される21世紀の市民社会を創造するためには、状況に応じて妥当な価値を選択して、それらの価値で人間・事象を判断できるような新しい価値観を身につける必要性があります。状況に応じた妥当な価値とは、どのような内容のものでしょうか。いま評価され過ぎているお金の価値などをすべて含んでいるのは言うまでもありませんが、あまり評価されていなかったり見過ごされている価値をも含んでいるように考えられます。手・足がまったく動かない障害者である私の立場から、"愛と優しさ"の価値の重要さと、その価値をも含まれた21世紀の新しい価値観の身に付け方について述べたいと思います。
金・金・金・・・金・金。現代社会は、お金という価値で人間・事象を計る傾向が強いのです。高等学校、大学へと進学した目的は、何でしょうか。「よい」とされる高等学校、「よい」とされる大学に入学するため、小さいときから一生懸命に勉強します。「よい」とされる大学は、どんな大学なのでしょうか。それは、「よい」とされる官公庁や企業に就職できる可能性の高い大学です。なぜそれらの就職先が「よい」とされるのでしょうか。多額の給与の獲得を期待できるからです。それ故に小学校のうちから我々の大半は、お金を獲得するために勉強するように駆り立てられ、むち打たれてきたのです。現代は、お金を常に重要視しすぎた価値観の社会であります。そのために社会の様々なところに歪みが出てきています。
たとえば、不慮の事故などで障害者になると、当初は、万全の医療体制が整った街中の病院で治療を受けられます。しかし、数か月後あるいは数年後には退院を余儀なくされ、人里離れた山奥の障害者施設に否応無しに入院させられます。人目をはばかりながらひっそりと息をし、死ぬのを待つだけの余生を送らなければならないのです。生まれ育った地域で、人としての尊厳を保持した生活をしていけない実態があります。交通事故で障害者になった私は実際、山の中の障害者施設に不承不承ながら入所し、寝たきりの生活を10年間もしていました。戸外に出してもらえて太陽を直に肌で浴びられるのは、年に1回あるかないかの生活でした。
お金を常に重要視しすぎた価値観の社会では、常に、経済効率を求めることが「よい」とされる経済原則が生まれます。その経済原則では、お金を稼げなくなった人を産業廃棄物的な存在であると見なしてしまうのです。社会のお荷物であると見なされてしまう障害者の存在を、否定しなければならなくなってしまいます。ヒットラーが行ったように、障害者を抹殺する理論が正当化されてしまうのです。しかしながら実際は、障害者も健常者も、お金を稼げる人間も稼げない人間も、すべての人間は、網の目のように相互に依存しあう関係の中で生きているのです。同時代のみならず過去も未来の人々に対しても、相互に深い依存関係を形成しているのです。経済効率を求める経済原則と相いれない、すべての人が共に手を取り合って生きる共存の社会原則もあります。共存の社会原則では、いかなる困難な状況を迎えようとも、常に"愛と優しさ"を発揮し続けてすべての人が共に生きようとする原則が貫かれます。"愛と優しさ"を重要な価値と位置ずけた価値観の社会では、共存の社会原則が成立しています。
一家に障害者・赤ん坊・痴呆性老人などがいる場合、そのために生産的労働にもろもろの差し障りが生じることは、すぐに、私たちの意識に上ります。しかし、そのためにかえって一家が力強い一致団結をして、困難を乗り越えた例は無数に存在します。決して、お金を稼げる労働者のみが共同体の存続を支えているのではありません。人間のあらゆる営みはそれぞれの共同体の維持と発展に貢献しているのです。人間には、それぞれいろいろな個性があり、異なった才能が備わっています。完全に同一の人間は、地球上には存在しません。芸術や科学的分野に優れた能力を発揮する人間もいれば、経営手腕に優れた能力を発揮する人間もいます。関わりあった人から"愛と優しさ"を引き出す能力を持った人間もいるのです。
たとえば、目の前の道路で車いすに乗った障害者が横転しているとしましょう。その場に居合わせた健常者は、車いすを起こしてあげるとか、交番に協力を頼みに行くといった行動をとらざるをえません。何もしないで見過ごしにすることは、ほとんど不可能なのです。相手のことを考えた行動を、とらざるをえないのです。他人の悲しみに共感してしまうのです。障害者から学ぶことができる「他人の悲しみへの共感」は、共存の社会原則が貫かれた豊かな生活を築くことに貢献します。障害者には、このような「見えざる能力」が潜在しています。
障害者に差別や偏見を抱かないで密接な交流ができるようになった健常者からは、必ず、知らず知らずのうちに障害者を思いやる感情が芽生えたり協力の行動ができる"愛と優しさ"が引き出されています。価値あるものが何もないように思われがちな障害者には、健康な人間から不幸を生み出す根本原因である自己中心主義を取り除き、他人の悲しみに共感できる愛の泉を掘り起こしてあげる能力が備わっているのです。お金を常に重要視しすぎた価値観では決して見えない純真無垢などから派生した「見えざる能力」を発揮して健常者から"愛と優しさ"を引き出せる人なのです。人間が人間をどのように見るかという人間観が正しい限り、人間には両義性が備わっていることに気づきます。愚か・醜い・汚いなどと形容される人は同時に、天からの授かり者、 "愛と優しさ"を引き出すことが可能になる人なのです。経済効率から判断して何も出来ない人は、つまり現代の価値観では価値が皆無に等しいと評価されてしまう人は、実際は、"愛と優しさ"の面から判断すれば素晴らしい価値を持っている人なのです。
世界中のいたるところで紛争が起きたり、お金もうけに血眼になって、行き着くところのない競争に明け暮れているている現代社会は、いかなる人間を希求しているのでしょうか。手・足のまったく動かない障害者であるかもしれません。彼らにも人格の全存在を通して、社会に働きかける力が潜在しています。手・足がまったく動かない一生涯寝かされていた障害者が、頻繁に健常者と関わりあった生活を街中でできるような社会になれば、誰もが人間らしく生きられる新しい価値観が社会に創造され、街角には"愛と優しさ"が満ち溢れるでしょう。世界中の街角に、他人の悲しみに共感できる"愛と優しさ"があれば、戦争など起こりえようはずはありません。今こそ、"愛と優しさ"の価値を重要視して、障害者を山奥に幽閉することを早急に止めなければなりません。障害者が見えざる能力を発揮して"愛と優しさ"を引き出せるように、障害者と健常者が街中で、密接に関わりあった生活をしていける社会になってほしいものです。障害者は、社会にとっての貴重な財産となりうるのです。
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